アドバンスクリエイト

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Chapter 01

1章:「決意」本物のプロと一緒に、人生を賭けたい

濱田が起業したのは必然だった。

幼少の頃から「社長」への漠然とした憧れもあった。

就職活動を経て、初めて入社した証券会社では、未上場企業を上場させる仕事を専門としていたため「創業経営」がもつダイナミック、且つドラマティックな場面を何度も目の当たりにしてきた。そんな経験も起業への想いを増幅させたことは、間違いない。

「この社会で働く人々の中に、プロとしての自覚や覚悟をもって仕事をしている人は一体どれくらいいるのだろう・・・。一流のビジネスパーソンを目指して日々自分を磨いている人がどれくらいいるのだろう・・・」

20代半ばの頃、濱田はそんなことを考えていた。

濱田には「自分はプロだ」という誇りがあった。

常に本気の真剣勝負。

自分は、たまたまスーツを着てオフィスで仕事をしているが、ユニフォームを着てグラウンドでプレーするメジャーリーガーと何一つとして変わらないと思っていたし、常にそうあるべきだと自分を奮い立たせていた。

しかし残念ながら(当然ながらというべきか)チームメイトには「アマチュア」もいれば「草野球」で自己満足に浸る者もいた。

「本物のプロを目指すチームメイトと共に、同じ志をもって、人生を賭けた仕事をしたい」

その強烈な情熱こそが「起業」の動機だった。

自分の夢に忠実に生きる、そんな決意をした。

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Chapter 02

2章:「起業」保険業界に革命を

「保険」との出会いは偶然だった。しかし今となれば必然だったのかもしれない。

「保険なんて無用の長物だ」

濱田も保険に対して不信感や嫌悪感を抱いていた一人だった。
しかし、そのイメージを180度変えた出来事があった。父親の死だ。

濱田の父親は白血病(血液のがん)を患い、長い闘病生活を経て他界した。
その間のかさむ入院・手術費を補ったのが「がん保険」だった。

そんな折、給付金が振り込まれた通帳に手を合わせ感謝する母親、親戚に「がん保険」を「宣伝」する母親、そんな姿を目にした時、濱田は「必要のないもの」と思っていた「保険」という金融商品に大きな関心を持ち始める。

「これほどまでに感謝される金融商品は他にはない。それなのになぜ、これほどまでに嫌悪感がもたれているのか」
濱田は業界やその歴史を調べていく内に、そこに内在する大きな矛盾に行き着くことになる。

保険は国民の9割が加入しているほどの生活必需品で、しかも高価。 しかしほとんどの人が納得して加入してはいない。それは「売り方」に問題がある。
保険業界は長い間、規制に「守られて」いて、統制経済そのもの。
濱田が気付いた保険の大きな矛盾は、「必要なものなのに、自由に選んで買えない」ということだった。

「もし、既存の『保険販売の在り方』を根底から変えることが出来たら・・・」

「消費者はまだ気づいていないだけで潜在的には必ず自分で自由に納得して保険に加入出来る環境を求めているはずだ・・・」

しかも、保険業界は約30兆円の巨大なマーケット。相手にとって不足なし。いびつで巨大な保険業界に革命を起こす。

1995年10月、濱田はアドバンスクリエイトを創った。

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Chapter 03

3章:「609」「ドア」を開けよう

資本金1,000万円、大阪のワンルームマンションからのスタートだった。

御堂筋から一本外れた10階建のビルの6階、部屋番号は「609」。
廊下のほぼ突き当たりに位置する一室で、20室近い他の事務所の閉め切られたドアが並ぶ。

そんな中、濱田が会社を設立してまず初めにとった行動は「ドアを開ける」ことだった。

「いつでもお客様が気軽に入ってこられるように」

そんなシンプルで純粋な「商売人」としての想いからだった。

「保険の流通革命」という壮大な夢を掲げながらも、そのための行動は「ドアを開けること」。
これこそが当社の社名の由来でもある「着眼大局着手小局」。
大きく、高いところを見ながらも一歩ずつ出来ることを着実に積み重ねていく。

創業以来、当社に連綿と流れる社風の1つである。

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Chapter 04

4章:「上場」「チラシ」で全国制覇

設立当初は、濱田自らが法人を対象に保険を販売していたが、2年後の1997年からポスティングによるプロモーション活動からの保険募集を開始する。

ポスティングによる保険の通信販売は同業他社にも前例があった。しかし、配布コストの割にレスポンス率が低く割に合わないため、主力チャネルとして継続実施している代理店はそう多くはなかった。

しかし、濱田は確信していた。
「レスポンス率が一定ならば、コストを限界まで下げることが出来ればこのモデルは必ず成功する」 以下は、ポスティング開始当初の頃を語ったインタビューから一部抜粋したものである。

「まず、チラシをいくらで配布すればコストとリターンが合うかを考えました。

この時保険会社の方からは、ポスティングによる方法ではコストに合わないため無理であると言われておりました。チラシの配布にかかるコストは大きく分けて、印刷代金と配布代金です。印刷屋は輪転機を回し続けることが儲けにつながりますので、安定して大量に発注することでコストを下げてもらう交渉をしました。ポスティング会社にとっては、いつでもどこでもよいという注文が1番助かるというお話を伺いましたので、いつでもどこでもよいという、いわば成り行き注文で安定的に発注することでコストを下げてもらいました。これでコストがリターンに見合う様になりました。全国のポスティング業者を回り、この様な交渉をし、1998年には大阪府内全域、2年かけて全国を網羅しました。」(いちよしマンスリーレポート:2003年4月号)

ポスティング網を文字通り全国制覇したアドバンスクリエイトの快進撃は止まらない。

2002年4月、専業保険代理店としては国内初の株式上場を果たすことになる。

創業からわずか6年半での上場は、快挙だった。

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Chapter 05

5章:「拡大」膨張の代償

上場後、アドバンスクリエイトは拡大路線をひた走ることになる。

来店型保険ショップ「保険市場」の全国展開である。 「保険のコンビニ」をコンセプトに、約2年間の歳月を費やし店舗を出店し続けた結果、2006年のピーク時点では全国43都道府県に197店舗の「保険市場」が存在した。

急速な出店に伴い、従業員数も大幅に増加し、夫婦2人で始めた会社は1,000人規模にまで膨れ上がっていた。

しかし、そこには濱田が創りたかった会社の姿はなかった。

もともと保険代理店を生業とすると決心した時に、「保険は、全国数万店あるどこの代理店で加入しても、基本的に保険料は変わらない。ならば、当社は『保険』を売るのではなく『サービス』を売ろう」というのが、濱田のこだわりだった。

しかし、全国津々浦々に広がった店舗において、濱田が求める「お客様を感動させるサービス」が実践されていたとは言い難い現状がそこにはあった。また、起業の原点である「本物のプロとしての志」をもったチームメイトは、数えるほどしか存在しなかった。

つまり、「拡大」に「伝達と教育」が追いついていなかったのである。

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Chapter 06

6章:「質への転換」店舗統廃合、そしてネットを主戦場へ

「もう一度、自分が創りたかった会社に創りなおす」

そう決意した濱田は、店舗の統廃合を決断する。
「質への転換」を経営方針に掲げ、旗艦店へ人材と情報の集約化を進めた。

同時に、濱田にはもう一つの大きな戦略があった。

Webプロモーションの強化である。

当社は1998年から保険比較サイトのサービスを開始、2003年1月に国内最大級の保険比較サイト「保険市場」を開設していた。

世の中では2000年を境にIT革命が巻き起こり、急速にIT・ブロードバンド化が進行。
金融においても銀行・証券業界に「ネットバンク」や「ネット証券」が台頭し、インターネットは「モノを買う時」や「何かを調べる時」の標準装備となりつつあった。

保険業界においても、その変化は少しずつではあるが、明らかだった。

2006年から、保険の資料請求者に占めるWeb媒体経由の資料請求者の割合が急増し、2007年にはアナログ(チラシ)媒体の割合を逆転する。

その波に先んじるように、濱田はWebサイトの一層の充実・強化を始めていた。
自社サイトの独自開発体制&スピーディーな修正、変更体制の確立。
徹底した「お客様目線」を貫き、「最適・快適」に保険商品を比較してもらうため、日々「仮説」と「検証」を繰り返す毎日。濱田自らがWebプロモーションの舵を取るほど、そのマーケティング戦略に注力。現在では、1ヶ月に約190万人が訪れる「保険情報メディアサイト」へと成長を遂げた。

販売拠点に関しては、量ではなく質を追求し、拠点数はピーク時の15分の1程度になったものの圧倒的なコンサルティングサービスを人材面でも、環境面でも提供できるようになった。

「質への転換」の名の下に、濱田が確立したビジネスモデルが「ネット」と「対面」の相乗効果を最大限に発揮する「Web to Call to Real」だった。

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Chapter 07

7章:「インフラへ」保険代理店業から金融情報サービス業へ

2008年は当社にとっても、保険業界にとってもエポックメイキングな年となった。 同年11月に、再保険会社「Advance Create Reinsurance Incorporated」を子会社として米国ハワイ州に設立した。専業保険代理店としては初の快挙だ。

再保険会社をもつということは、当社の業界における圧倒的な優位性を示す。この再保険会社がビジネスモデルに加えられたことにより、当社は保険ビジネスにおける全ての収益機会を得たことになった。つまり、強固な収益基盤を作り上げたということである。

翌年2009年から「質への転換」から「質への向上」が加速する。

同年4月、新コンセプトの店舗展開を開始。統廃合を断続的に実施してきたが、ここにきて、「Web to Call to Real」を真に具現化するため「新生・保険市場」を出店。
「より便利に より分かりやすく より広く」をコンセプトに掲げた。
大都市圏のターミナル立地を目指し、交通至便な主要駅近くに、ランドマークと言える有名スポットに出店。店舗面積も従来の3倍~4倍の広さを確保し、よりくつろげるスペースを作り上げた。その空間には、大型ショッピングモールに構えられていた店舗とは比べ物にならない高級感が漂った。 そして現在はこのモデルに「協業」が新たな販売チャネルとして加わった。
当社が店舗をもたない地域に点在する無数の代理店に対し、当社が得た「資料請求情報」を「卸す」ことにより「情報提供料」を利益として得る。これが「協業ビジネス」である。

アドバンスクリエイトは「金融情報サービス業」として、保険業界において「なくてはならない存在」つまり「保険業界のインフラ」を目指す。

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Chapter 08

8章:「人こそ全て」1000年続く会社を目指して

約2年間かけて「仕組み」はほぼ構築された。他社の追随を許さない当社保険比較サイトからは、潤沢な資料請求情報が得られる。そのお客様のために多様な販売チャネルを完備した。強固な収益体制も確立された。このモデルは世界を見渡しても類はない、唯一無二のモデルであることは間違いない。前例がないのである。

「仕組み×人の質」

濱田は創業15年目を迎える際の全社決起会にて、社員に向けてこんなメッセージを発した。

「ハード面の環境は最高のものを用意した。時代に合わせた戦略を打ち出してきたことで、お客様も我々を支持し、前向きに当社へ向かってきてくださっている。あとは君たち次第。最高の環境に見合った人材へ成長して欲しい。君たちに誇りをもって仕事をしてもらいたいからこそ、最高の環境を創った。あとはソフトだ。つまりこの仕組み(ハード)を生かすも殺すも君たちに懸っているということだ。完成された仕組みに魂を込める人こそが、当社にとっては全てなんだ」

「本物のプロを目指すチームメイトと共に、同じ志をもって、人生を賭けた仕事をしたい」

これが起業の動機だった。これは何一つとして変わってはいない。
つまり、濱田は15年目を迎えたからといって改めて我々社員に「人こそ全て」と訴えかけているわけではなく、15年間欠かすことなく「プロとして、こだわった、誇りをもった仕事をしなさい」と教え続けてきた。社員一人一人が「プロ」の仕事をすることの延長線上にしか、「夢の実現」がないことを濱田は知っているからである。

2014年10月にアドバンスクリエイトは20年目に突入した。
実は濱田が創業時に掲げた夢がもう一つあった。
それは「1,000年続く会社を創る」こと。
企業にとって継続こそ全て。
どんな時代になったとしても、我々は柔軟に変わっていき、かつ勇敢に新しいことに挑戦し続ける。
しかしその一方で変わることのない当社の「企業文化」を守り続けていく。
この「不易流行」こそが「継続企業」にとって必要不可欠な精神であると濱田は信じている。

まだ1,000分の20。我々の挑戦は始まったばかりだ。
君たちの志を我々は待っている。夢は叶う。
「共に、世界を変えよう」

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